歴史

【書籍より】塩野七生『ローマから日本が見える』

Posted by hsaitoh on 7月 13, 2013
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【書籍】ローマから日本が見える

機に直面したときに私たちは、ともすれば旧来の体制を『悪しきもの』『否定されるべきもの』として考えてしまいがちです。ゆえに古くからのシステムを破壊することが改革につながると思うようになるのですが、はたしてそうなのか。

参議院選挙のさなか、21日の投開票日に向けて、各党が「改革」への取り組みを有権者の皆様に訴えています。もちろんわが自民党も例外ではありません。

そこで思い出しますのが、冒頭に引用した、塩野七生氏が『ローマから日本が見える』で問いかけた問題意識です。古くからのシステムを破壊することが『改革』なのかと問われれば、私もやはり、いいえ、と答えます。

塩野氏は同書中でこうも述べられています。

ともすれば改革とは、古きを否定し、新しきを打ち立てることだと思われがちですが、けっしてそうではない。

成功した改革とは、自分たちの現在の姿を見つめ直し、その中で有効なものを取り出していき、それが最大限の効果を上げるよう再構築していく作業なのではないか。

この考え方には、私だけでなく、多くの有権者の皆様が同意されるのではないかと思います。

改革とは、破壊ではありません。わが国の現状を見つめ直し、その中で有効なものと、時代の変化によって機能不全に陥っているものとを選り分け、現在有効なものが最大限の効果を上げるよう再構築していく、その作業こそが、わが国に必要な『改革』と考えます。その営みは、華々しいものでも一過性のものでもなく、地道な、たゆまぬ努力と、理性的な判断とによって積み上げていくべきものです。

歴史上、幾多の危機を乗り越えてきたときと同様に、現在のわが国には、地道でたゆまぬ努力と、理性的な判断力によって裏打ちされた真の改革が必要です。この参議院選挙でも、その改革に参画する能力が「より」高いと考えられる候補者、そして政党はどこかという観点から、ぜひ比較検討していただきたいと思います。

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近きを訪ねて新しきを知る(後編)

Posted by hsaitoh on 7月 20, 2012
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親睦会の旅行で、ヤスダヨーグルトに引き続き阿賀野市は五十嵐邸ガーデンに行って参りました。

「五十嵐様」は県北でも有数の大豪農(庄屋格)で、貴族院議員や百十六銀行(後の新発田銀行)頭取などを務めた家です。五十嵐邸ガーデンは、五千坪の敷地に立地する明治時代の建築である同家の邸宅とその周辺の庭園を、レストランや結婚式場として提供しているものです。

邸宅もさることながら広大な日本庭園も素晴らしく、往時の県北の豪農の栄華がしのばれることでした。

さて、新潟県北は江戸時代の大開拓時代を経て、明治時代には既に国内有数の穀倉地帯になっていました。

そのため、早稲田大学の創設者・大隈重信の後援会長であり大スポンサーであった新発田市の市島家をはじめ、やはり新発田藩領であった蓮潟興野(はすがたこうや。開拓地である土地の来歴が知れる味のある地名だといつも思います)の庄屋であった二宮家、旧加治川村の白勢家など、多くの多額納税貴族院議員を輩出し、またその納税額が他府県の議員に比べて桁外れに大きいことで知られました。

※五十嵐邸ガーデンHP

http://www.swanlake.co.jp/main/ikarashi_info.htm

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祭りとまつりごと

Posted by hsaitoh on 4月 16, 2012
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4月15日は、春の平林(私の地元です。)の祭り(保呂羽大権現祭)と村上市長選挙・市議会議員選挙の投開票日が重なりました。

平林の祭りは上杉景勝公のころの平林城城主、色部長真公が仙北一揆(太閤検地に反対して起きた現在の山形県の一揆)を鎮圧するために遠征したおり、現地の保呂羽大権現を勧請して平林に神社を開き、一族の菩提寺、千眼寺の守護神としたことを記念したもので、例年4月15日に行われています。

…という歴史的経緯のうんちくならいくらでも語れるのですが、ずっと東京に出ていたものですから、神輿担ぎはいたって下手くそで、先輩後輩・同級生にフォローしてもらって、どうにか担ぐことができました。この場を借りてお礼を申し上げます。

担ぎ手は、平林集落の若手だけでは足りませんので、近くは村上市村上地区、同荒川地区、胎内市、遠くは新潟、上越、山形県米沢、群馬県沼田に至るまで、各地の神輿会の皆さんに応援に来ていただきました。ありがとうございました。

こうした祭礼を通じた交流は貴重な機会であり、また昔、人の移動が現在よりも困難だったころから、人の交流は祭礼の重要な役割であったろうと思います。応援に来ていただいた方々とも話して、各地区の祭りにも招いていただけることになりました。ありがとうございます。楽しみにしております。

 

 

 

 

 

祭りのあとは、祭り装束のままで、大差で2期目の当選を決めた大滝平正市長の村上事務所で万歳三唱に参加して参りました。

各地区各地区で、伝統の担い手である若手に、地域のために働く余力、とくに経済的基盤が確保されるような政治の実現を私は目指したいと思いますし、大滝市長にもぜひそのような市政を実現していただきたいと思います。

 

 

 

 

 

(こども神輿の担ぎ手である、小学校1年生から6年生までの子どもたち。我々のころから比べると、集落の小学生の総数は3分の1くらいに減っていますが、神輿だけでなく、地元や日本の担い手になっていく子どもたちですので、健康で勉強も遊びも頑張って欲しいと思います。)

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政治家が幕末の志士であってよいのか

Posted by hsaitoh on 2月 19, 2012
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橋下大阪市長が代表を務める『維新の会』が「政権構想の骨子案」として「船中八策」を公表しました。

もともとの「船中八策」は、いうまでもなく、幕末に、坂本竜馬が幕藩体制に変わる変革案として立案したもので、有力諸侯による合議政体の確立などを骨子としています。

さて、この「船中八策」に限らず、改革派のイメージがあるためか、政治家が幕末の志士と自らを重ねてアピールをする場合がみられます

例えば菅直人前首相は高杉晋作(長州。武士以外からなる武装集団「奇兵隊」の創始者)を「尊敬する人物」として挙げ、組閣時には、自らの内閣のネーミングを問われ、「奇兵隊内閣と呼んでもらいたい」と答えていました。

しかし私はこのような風潮に疑問を感じます。すなわち、政治家が維新の志士であって良いのか、という疑問です。

江戸幕府は、その統治政策により、外様大名や一定以上の規模の大名に、国政への参加を意味する老中(大老)の就任を認めませんでした。

そのため、いわゆる薩長土肥のような西国の有力諸藩の諸大名家では、幕末期の政治経済の行き詰まりの原因を外交をはじめとする幕府の失政に求め、倒幕の手段として「尊皇攘夷」(皇室・朝廷の権威を回復し、外国勢力を打ち払う)をスローガンに、ついに幕府を倒すに至りました。

しかし問題はそのあとです。

権力を掌握するや、明治新政府は、「尊皇攘夷」を放棄し、江戸幕府の開国路線を継承しました。維新の志士にとって、「尊皇攘夷」はあくまで体制転覆のための手段にすぎず、また当時の国内外の情勢を踏まえて立案された政策ではなかったのです。

そして、江戸期には合法的に権力を幕府から奪取する手段がなかったので、いわば「革命の論理」として「尊皇攘夷」もやむを得ないかも知れませんが、現代の政治家は、選挙という合法的・民主的手続を経て権力を掌握する道が開かれています。

その現代の政治家が、維新の志士と自らを重ね合わせて考えるのは、あまり適切なこととは思いません。

幕末期、幕府内でも体制の行き詰まりには強い危機感が抱かれており、洋学を学んだ者を中心に多くの開明派の人材が登用されました。

「江戸無血開城」で著名な勝海舟は旗本小普請組という小身から軍艦奉行に任ぜられましたし、外国奉行・勘定奉行などを歴任した小栗忠順(ただまさ。上野介とも)は、横須賀に造船所を建造するなど日本の近代化に多大な貢献をしました。

この横須賀の造船所については、ある者が小栗忠順に、幕府の運命が尽きようとしているのに、なぜ造船所をつくるのかと問うたところ、

「土蔵付きの売り家を後に残すのも良いではないか。」

と答えたとのエピソードが伝えられています。

現代の政治家は、このように幕府の体制内、つまり実際に権力の地位にあって、倒幕後の日本の将来を見据えて政策に取り組んだ人物にこそより多くを学ぶべきです。

菅直人前首相は、内閣総理大臣という地位にありながら、自らの内閣を「奇兵隊内閣」としました。「奇兵」とはいうまでもなく、「正兵」と対になる言葉で、正規軍でない、幕末でいえば武士階級でない兵隊のことです。

しかし最高権力者がこのような発想でいたことからして、菅内閣の一連の失政は当然だったと思っています。一国の国政を預かる者が、自らの内閣を「正規軍でない」と言ってのけてしまうこと自体、資質を疑わせます。

また、鳩山邦夫元総理大臣も、麻生政権末期、自らを坂本竜馬になぞらえて自民党を飛び出し、大きな批判を浴びました。

以上のとおり、私は、現代の政治家は、維新の志士を安易に気取るべきではない、と考えます。

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地方の文化ストックの保全を

Posted by hsaitoh on 2月 04, 2012
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挨拶回りや会合への出席を重ねておりますと、地方にストックされた文化的財産に巡り合うことも多々あります。

例えば、最近では、横山大観の書簡や同氏の中期の傑作などをはじめとする美術品の数々について、新発田市のさる方が、保存と散逸防止に尽力されているのを、拝見することができました。

また、挨拶回りに伺った、江戸時代から続く旧家では、極めて保存状態の良い、寛永年間に作られた百科事典など、貴重な物品を多数拝見することができました。

これらは、日本の財産であるとともに、地方の財産でもあります。

このような文化ストックを、農地や漁港や工場などの産業ストック、道路や鉄道などの交通ストックなどと同様、後世に残す必要性を実感します。

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